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奥の細道 尾花沢 [奥の細道]

尾花沢では江戸で旧知の豪商、鈴木清風を訪ねた。
清風宅跡は、江戸時代の商家、旧丸屋を移築して資料館に
なっている。

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資料館前には立派な芭蕉像が立つ。

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資料館内部。芭蕉関係より、清風関係がほとんど。

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この清風なる人物、金融業および紅花問屋で、当時の
尾花沢は江戸の紅花の中で大きなシェアを得ていた。
江戸に300俵の紅花を持ち込んだ清風に対して、
江戸の問屋が示し合わせて取引を断り、困った清風が
ディスカウントするだろう、と企んだところ、清風は
ディスカウントするどころか、川原で300俵の紅花を
焼いてしまった。当然、紅花が不足し価格は急騰、
逆に困った江戸の問屋が泣きついて清風はボロもうけ
したと言う。実は川原で焼いた紅花はおがくずに色をつけた
偽物で、本物の紅花は蔵に隠してあったと。

ここまでなら商売上の話なのだが、清風の俳人・風流人たる
ところはこれからで、だまして得た大金(3万両と言う)を
そのまま懐に入れてはヤボだとばかり、当時の吉原を3日間
借り切ったという。その気風に花魁が惚れ・・・なんて話。

閑話休題

芭蕉が清風宅に泊まったのは1泊で、翌日から10日間の
滞在は清風宅から歩いて5分くらいの養泉寺に泊まった。

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ここは少し高台の端になっていて、遠く出羽の山々が眺められる
非常に気持ちの良いところ。

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ここで寛いだ気分の芭蕉は3句残している。

  涼しさを我宿にしてねまる也 芭蕉

  這出よかひやが下のひきの声 芭蕉

  まゆはきを俤にして紅粉の花 芭蕉

最初の2句は非常に寛いだ印象を与え、3句目はやや艶っぽい
雰囲気も。養泉寺には、1762年建立の非常に古い
「涼しさを・・・」の碑がある。

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奥の細道 尿前(しとまえ)の関 [奥の細道]

順路が急に変わりますが、訪問したところから順に報告。

平泉から一関・岩出山を経て出羽の国に向かう途中、
尿前(しとまえ)の関を越える。
関はこのように復元されている。

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関の前には芭蕉像と碑が立つが、尿前の関では句を作っていない。
怪しまれて越えるのに苦労したというから、それどころでは
なかったか。

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関を越えるとこのように中山越えの道が続く。

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深い沢を越え、中山峠を越えて堺田で国境警備役人(封人)の家で
宿を取った。管理のおじさんの話によると、芭蕉が奥の細道で宿泊した
建物で唯一の現存するもの、とのこと。本当?復元だと聞いたけど。

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ここの印象は良くなかったのか、

  蚤虱馬の尿(ばり、しと)する枕もと 芭蕉

で、その馬と言うのは当時から軍馬・献上馬として知られた小国馬が
家の中で飼育されていた(写真の馬は模型)。

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馬小屋から室内を見たところ。句からすると手前の土間に寝かされた
ような印象があるがそうではなく、奥の座敷だろうと。
そこまで馬の尿の音が聞こえるか、と言うと、管理のおじさんが
「滝のような音がするので、知らない人はビックリする」とのこと。

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座敷手前には囲炉裏が。この暑い夏に囲炉裏も無いだろうと
思ったが、これも管理のおじさんによると「都会の人は珍しい
だろうから・・・」と。

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堺田は分水嶺に位置するが、面白いことに非常に平坦な分水嶺で、
封人の家から数分歩くと、こんな分水嶺が。右が日本海、左が太平洋

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堺田から尾花沢へは奥の細道最大の難所といわれる山刃伐峠を案内の
若者に導かれて越えた。
現在、山刃伐峠は県道のトンネルで貫かれ、山越えの道はほぼ消失。

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トンネルが通る前の県道旧道が峠直下まで通っていて、狭路ではある
ものの、今でもいける。そこから少し上ると、山刃伐峠の碑がある。

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ここから尾花沢側に下っていく。
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奥の細道 白河の関 [奥の細道]

芦野から街道を北上し、今の栃木福島県境の、境の明神を通る。
栃木県側には住吉神社、福島県側には玉津島神社がある。

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そして遂に、奥の細道の最初の目的地と言ってもいい、白河の関を
訪れた。

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平兼盛、能因法師、源頼政、藤原朝臣、久我通光、藤原清輔らを
次々引用して雰囲気を盛り上げ、自身は句を読まずに、曽良の

  卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

と感動を伝えている。
もちろん、詠もうとしたけど詠めなかったわけではなく、感動で
詠めなかった、とのポーズなのである。演出家の芭蕉。

白河の関跡に隣接する公園には芭蕉と曽良の像があり・・・

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ご丁寧に横には「卯の花」が植えてある。

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白河の関にある芭蕉の句碑は

  風流の初やおくの田植えうた 芭蕉

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これは後段の須賀川での句会の際に、白河の関を越えた最初の印象と
して詠んだもの。なので、ここにある。
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奥の細道 殺生石・遊行柳 [奥の細道]

黒羽を出発した芭蕉は馬で那須に向かう。道中、馬子が句を所望するので

  野を横に馬牽きむけよほととぎす 芭蕉

と詠んでいるが、道中のことなので場所がどこかは特定できない。黒羽の
ある寺には句碑があるが、明確にそことは言えないので掲載しない。

那須についた芭蕉は温泉神社を拝観しいている、ここは京都の石清水八幡宮が
合祀されているので、温泉神社の湯を手ですくうと、両神社にお参りしたことに
なるという意味で

  湯をむすぶ誓ひも同じ石清水 芭蕉

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と詠んだと曽良が記録しているが、奥の細道には入れられていない。
那須では殺生石を見て、蝶や蜂が地面が見えないくらい死んでいる、と
書いたが、ずいぶん大げさな。いくらなんでもそんなに虫いないでしょう。
いたとして、そんな状態なら人間も即効危険。このあたりが脚色で。

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那須から降りてきて、芦野で西行法師が

  道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ

と詠んだ遊行柳で芭蕉も「しばし立ちどまり」

  田一枚植て立去る柳かな 芭蕉

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この句は、「早乙女が田1枚を植え終わるくらい長い時間立ちどまった」
解釈と、「芭蕉自身が田植えに参加し、1枚植えた」解釈があるらしいが、
さすがにそんなヒマじゃないでしょう。
ちなみに「遊行」は僧侶がぶらぶら歩くこと、転じて布教のための行脚
であり、また実際には西行はこの柳で歌を詠んだわけではないらしい。
別の柳の絵につけた歌を転用したとか。

要は、芭蕉の時代には既に観光地化していたわけで。
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奥の細道 雲巌寺 [奥の細道]

黒羽から東に12kmほど、芭蕉の禅の師匠、仏頂が修行した
山居を見に雲巌寺に行っている。
八溝の深い森の中にしっとりと佇むなかなかに風情のある禅寺。

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仏頂の山居跡を見て感銘を受けた芭蕉は、その尊さにキツツキも
遠慮して穴を開けない、と、

  木啄も庵はやぶらず夏木立 芭蕉

と詠んでいる。境内には仏頂の句

  竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば 仏頂

と並んだ石碑がある。

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奥の細道 黒羽 [奥の細道]

那須野を抜けて黒羽に到着した芭蕉は門人であり、黒羽の館代を勤める
浄法寺桃雪をアポなしで訪ねた。
桃雪亭跡は今では芭蕉公園として整備され、紫陽花が咲き、「芭蕉の館」なる
資料館などがある。

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桃雪を訪れた芭蕉の挨拶句の石碑がある。

  山も庭も動き入るるや夏座敷 芭蕉

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黒羽には長く(2週間)滞在し、色々見て廻っている。
かつての犬追い物(犬を狐に見たたて追う武芸)の跡を見たとあるが、
要は「フィールド」なので、だいたいこのあたり、と。

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その後、那須の篠原を踏み分けて「九尾の狐」伝説の玉藻稲荷神社を訪れている。
那須の篠原、と言うと、源実朝の

  もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原 源実朝

で知られ、万葉好きの芭蕉としては訪ねておかねばならないスポットだったのか。

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さらに、「八幡宮」と記された那須神社を訪ねている。那須神社横には
道の駅「那須与一の郷」がある。

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重要なところとしては、修験道光明寺を訪れている。修験道光明寺は明治に廃止され今は跡形もなく
ただの林になっている。

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ここで行者堂に安置された役の行者のものと伝えられる下駄を見て、

  夏山に足駄を拝む首途哉 芭蕉

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これからの長い道のりを考え、健脚と言われた役の行者の下駄を見て旅の安全を
願う芭蕉であった。
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奥の細道 那須野 [奥の細道]

4、5月と何だかんだで忙しく中断していた奥の細道だが、ようやく前進。

本来なら次は日光だが、メジャー過ぎるのでパス、日光から黒羽に向かう
那須野に進む。

那須野では道中、玉入(たまにゅう)で日が暮れ、農夫の家で一夜を明かした、
とのことで、「芭蕉一宿之跡」碑があるが、建物などもなくあまり見るべき
ところもない。

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この後、奥の細道の中でも印象的なエピソードがある。
農夫から馬を借りて那須野を行くと、子供が2人ついてきて、一人は
可憐な少女で名は「かさね」と言う。そこで曽良が一句。

  かさねとは八重撫子の名成るべし 曽良

要は、それくらい可愛らしいと。

この話にもいろいろと解釈があって、この少女の存在自体が創作だとか、
句を詠んだのが誰か、等々。

私のもっとも好ましい解釈は、少女に、今風で言うと「萌え~」な芭蕉が
詠んだが照れくさいので曽良が詠んだことにした、と言うもの。

かさねについては、矢板の箒川に懸かる橋にその名を残している。

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奥の細道 室の八嶋 [奥の細道]

「奥の細道」の目的は何だったのか。

よく芭蕉隠密説だとか、そういうのもあるが、「奥の細道」と言う作品において
描かれているのは、芭蕉が憧れた平安の歌人たち、特に漂泊の旅に生きた西行法師が
陸奥を旅しており、その足跡として「歌枕」の地を訪ねることが大きな目的だった。

「歌枕」とは、狭い意味では類型的な連想作用を促すことばとしての地名であり、
その言葉・地名はある特定のイメージと結びつき、和歌に織り込まれた。
和歌は、そういう「お約束」を理解した上で楽しむ、高度に洗練された嗜みだった。

で、千住を出発し、草加、粕壁を通った芭蕉は、最初の目的地である歌枕「室の八嶋」に
向かった。今ではほとんど忘れられた「室の八嶋」は、下野国(しもつけのくに)の惣社、
大神(おおみわ)神社にある、8つの島(八嶋)をもつ小さな池が、今で言う「室の八嶋」。

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さて、「室の八嶋」は、和歌の世界では「けむり」のイメージと結びつき、
「けむり」は、恋のイメージ(恋「焦がれる」)と結びつく。
百人一首にもある「焼くや藻塩」と同じ系統。

では、なぜこの下野の地がけぶりたつ「室の八嶋」になったのか。

いろいろな解釈・説明が存在し、「奥の細道」でも曽良が何やら混沌とした
説明をするが、芭蕉は特に感銘を受けるでもなく、結局「奥の細道」には
室の八嶋で読んだ句は一句も入っていない。

と言うのは、現在の、そして芭蕉が訪れた当時の「室の八嶋」は、後年に神社の
境内に作られた「模型」のようなもので、平安の本来の風景とは全く違うもの
なのらしい。

そんなこんなで、旅の最初の目的地、「室の八嶋」は芭蕉にはガッカリだった
のかもしれない。

「奥の細道」には入れていないが、一応読んだ句としては

  糸遊に結びつきたるけふりかな 芭蕉

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と言うわけで、次なる目的地は日光
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奥の細道 深川・千住 [奥の細道]

冷たい雨の降る日曜、最近マイブームの芭蕉を訪ねて深川・千住へ。
なぜマイブームかは後ほど。

深川最寄の地下鉄森下駅につくと、通路には早速・・・

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駅から徒歩5分ほどで芭蕉記念館がある。入場料100円。
本来、芭蕉は旅に生きたわけで「モノ」を集める人ではなかったので、
記念館と言っても所縁のものがたくさんあるわけじゃないけど、
やはり行っておくべき。

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記念館の前にある石碑。(第2次)芭蕉庵を娘のいる(雛人形を飾る)
家族に譲って、身一つとなって奥の細道に旅立った。

  草の戸も住替る代ぞひなの家  芭蕉

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その芭蕉庵の場所は今ははっきりしない。芭蕉庵は3つあり、最初の
芭蕉庵は(八百屋お七の)大火で焼失、第2次芭蕉庵は奥の細道に
出るときに手放し、最後の芭蕉庵はほとんど住んでいない。
第2次芭蕉庵の場所もはっきりしないが、後年、大正6年の大津波の際、
「芭蕉遺愛の石蛙」(伝、芭蕉記念館蔵)が出土したとされる場所が
そこだとされ、芭蕉稲荷が建てられている。

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その向かいは芭蕉記念館分館となっており、隅田川を望むテラスには芭蕉像。
背景は清洲橋。

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清澄通りを南下し、清澄庭園を過ぎたあたり、仙台堀川のたもとに
芭蕉の門人、杉山(鯉屋)杉風の別宅、採茶(さいと)庵があり、
芭蕉は芭蕉庵を引き払った後ここに移ってから奥の細道に出立した。

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採茶庵の裏側。面白かったので撮ってみた。

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隅田川を船で遡った芭蕉は、隅田川にかかった最古の橋、千住大橋のたもとに
上陸し、門人に見送られて旅を始めた。

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ここで矢立初めとして

  行春や鳥啼魚の目は泪  芭蕉

「魚」は上記の杉風のこと(鯉屋だから)とされる。

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ここから1日目は春日部(粕壁)まで歩いたとされる。

さて、なぜマイブームかと言うと、芭蕉が自分と同じ県の出身(「国」は違うけど)
と言うことと、実は自分が今年、芭蕉が奥の細道に出立した年齢と同じに
なった、と言う事で足跡を辿ってみようかなと思った次第。
この企画、続きますやら。
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